おくやみ:藤村操氏

北海道出身の華厳滝で自殺し、遺書「巌頭之感」で有名になるた旧制一高の学生
1903年 5月22日 没 享年17 自殺により死去

略歴

藤村 操(ふじむら みさお、1886年(明治19年)7月20日 - 1903年(明治36年)5月22日)は北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感」によって当時のマスコミ・知識人に波紋を広げた。 出自と家庭 祖父の藤村政徳は盛岡藩士であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は明治維新後、北海道に渡り、事業家として成功する。 操は、1886年(明治19年)に北海道で胖の長男として生まれ、12歳の札幌中学入学直後まで北海道で過ごした。この間の1899年(明治32年)に胖が死去している。その後、東京へ移り、開成中学から一年飛び級での京北中学編入を経て第一高等学校に入学した。 父の藤村胖は、屯田銀行頭取である。 弟の藤村朗は、建築家で三菱地所社長となる。 妹の夫安倍能成は、漱石門下の哲学者。学習院院長や文部大臣を歴任した。 叔父の那珂通世(胖の弟)は、歴史学者である。 華厳滝の自殺 1903年(明治36年)5月22日、栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)の華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して自殺。Wikipediaより

訃報

悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て比大をはからむとす、ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大いなる悲觀は大いなる樂觀に一致するを。

遺書「巌頭之感」より